服部産業の歴史

1. 初代 与三治(五兵衛)による橘町板屋の創業

1.初代与三治(五兵衛)による橘町板屋の創業

弊社の基は、初代与三治(五兵衛)が享保年間に橘町で創業した「板屋」です。
しかし、創業年間が伝わるだけで、詳しいことはわかっていません。
橘町は、名古屋城(本町御門)から熱田伝馬町まで南北に走る本町通りの大木戸辺りに所在しました。
〈参考〉「愛知縣名古屋明細圖」(明治10年)

橘町裏町には寛政13年(1801年)に再建された芝居小屋があったのですが、これを、板屋与三治が津田屋惣左衛門と共に一時期所有していたとの記録がみつかっています(『古袖町勾欄記』)。橘町板屋の当主は、過去帳によれば、初代から5代まで、与三治(與三治*)を名乗っており、この板屋与三治は、2代か、3代だと思われます。

*与惣治、与惣次など、漢字にはバリエーションがあります。また、4代は、過去帳以外に、与兵衛とする資料が複数あります。

江戸時代の名古屋(「東海道名所之内 名古屋」)
城の下に「芝居」(赤い矢印)の字がみえます。

ところで、弊社の前身である橘町板屋は、幕末に存在した特権を有する木材商の集まりである「いろは本組」(*)に入っていませんでした。
 名古屋の木材市場は、民間材の取引が行われていた江戸や大坂の木材市場と異なり、藩営の木曽材、飛騨材の「御残り材」の払い下げによって発達してきたという特徴がありますが、いろは本組に対し払い下げられる御残り材は、払い下げられる総高の8割乃至9割にまでのぼっていました。したがって、橘町板屋に払い下げられる御残り材は、その残余であったようです(『愛知の林業史』等)。

*「いろは本組」というのは、元材木町、上材木町、下材木町の三ヶ町に居住する木材商でつくられた組合で、尾張藩への献金に応ずる一方、「材木屋」と号すること、御残り材の払下げを受けられること等の特権を有していました。