服部産業の歴史

2. 3代与三治と名番頭与助

2. 3代与三治と名番頭与助

橘町板屋の業績が急伸したのは、3代与三治のときだと考えられています。
この頃、橘町板屋では、熱田神宮や春日大社に寄進したとの言い伝えがあります。実際、熱田神宮には、文政13年(1830年)に3代板屋与三治が寄進した石燈籠(常夜燈)が現存しています。

燈籠には、「板屋與三治」、「板屋小十郎」、「文政十三年庚虎歳正月」の文字が刻まれています。

また、今から約200年前の文政5年(1822年)には、橘町で出火がありました。猿猴庵として著名な尾張藩士高力種信の日記である『金明録』(名古屋叢書三編第14巻) は、この火事について、以下のように伝えています。

此火事、場所はわづかなれども、家居高く、何れも大家、殊に板屋と言 材木やも、両側に有之候故、火仰山に遠方へも見へる。

ここにでてくる「板屋」が橘町板屋です。橘町板屋は、当時、本町通りの両側で材木屋を営んでいたため、燃え移った火は、江戸時代の名古屋の夜空に勢いよく立ち昇り、遠方からもみることができたようです。
また、『青窓紀聞』(尾張藩士水野正信による風説留。蓬左文庫蔵。)には、この火事の際、橘町板屋の番頭であった与助が、裏境の板囲いを破って、八幡(日置神社)の境内に家内の者を避難させたという記載が残されています。このことから、江戸時代の橘町板屋は、裏境を日置神社に接していたことがわかります。
〈参考〉「愛知縣名古屋明細圖」(明治10年)の抜粋

この『青窓紀聞』にでてくる番頭、与助は、3代から5代の板屋与三治に仕えて橘町板屋の発展を支えた大切な人であり、「与助見習うべし」という言葉は現在まで伝わっています。与助の忠勤は尾張藩まで聞こえるところとなり、安政3年(1856年)に御賞を賜りました。既に述べた『青窓紀聞』の他、『鶏肋集』『松濤棹筆』にも、「与助行状記」として、御賞の理由となった与助の行状が記されています。また、与助の功を讃える族忠碑(せいちゅうひ)が山王橋のほとりに残っています。

与助像

与助像

スポーツクラブ「ラ・グラッセ」の敷地内にある族忠碑(*)

〈大意〉
名古屋の資産家の服部氏に与助という使用人がおり、三代に仕えた。
両親を亡くし、一人奉公にでて、育った。
五十年間とてもよく勤め、忠義一途であったのが、
尾張府公の聞こえるところとなり、褒美として三百緡ビンを賜った。
与助はわが津の生れで、里正の岡某がこれを伝えたので、
よろこんで、四言詩を贈った。
(以下、略)

*この碑文を書いたのは、伊勢津藩士の斎藤拙堂と考えられています。