服部産業の歴史

4. 5代与三治と明治維新

4 .5代与三治と明治維新

橘町板屋は、5代与三治のときに明治維新を迎えます。
明治元年でもある慶応4年(1868年)3月の「御用達名前帳」には、「板屋 服部与三治」が「御勝手御用達格」(御勝手御用達格で4番目、全体で27番目)として掲載されています(『名古屋商家集』)。
また、明治3年(1870年)9月に職種毎に組合が設けられた際、「服部与三治」は、鈴木惣兵衛氏(材惣7代当主)と共に、「会社頭取、材木懸り」に任じられています(「御国産御用留」『名古屋叢書第十一巻 産業経済編(2)』)。
これらの「服部与三治」は5代であると考えられています。
明治4年(1871年)に発行された「名越各業獨案内」 には、「橘町」の「板屋与三治」が「材木商賣」として掲載されています。ここでは、現在も使われている「㋵」の標章も、使用されています。
5代服部与三治の頃、遅くとも、三重県松阪市射和の国分國分勘兵衛家居宅の普請を請け負った明治8年(1875年)までには、現在の弊社の登記上本社がある中区松原(旧下堀川町)において営業を開始したと思われます。そして、明治期には、創業の地である橘町本町通り沿いの店と、下堀川町の堀川端に木場を備えた店の双方において、営業していたようです。

<参考>「愛知縣名古屋明細圖」(明治10年)の抜粋

例えば、岐阜県岐阜市次木の庄屋であった堀家が、明治10年代から20年代にかけて居宅を新築した際、第5代服部与三治も、第6代服部小十郎も、材木を納めています。その納付書等(岐阜県歴史資料館蔵)では、5代与三治が「尾刕名古屋橘町板屋与三治」というスタンプを用いているのに対し、6代小十郎は「愛知名古屋堀川木場 服部」というスタンプを用いています。
また、明治17年(1884年)9月に発行された『尾三農商工繁昌記』には、以下の記載があります。

「材木類 橘町 服部与三治」
「材木類問屋 下堀川町 服部与三治 市店」(ママ)

これらから、5代服部与三治は、江戸時代からの橘町の店を本店とし、下堀川町の店は、支店としていたことがわかります(恐らく、下堀川の支店は、6代小十郎に任せていたと思われます。)。

橘町では、明治初年から、量器の製造を開始しました。一斗や五升の圓壔量器は、「本市の特産として東西各地に輸出せらるものの甚だ多し」と記されています(『名古屋市史(産業編)』)。

木材業以外では、明治20年(1887年)、5代服部与三治は、高島嘉右衛門氏の易断により、京岐商会の田村半助氏、坂田伯孝氏らとともに、愛知郡熱田町白鳥にセメント工場を建設しました(後の愛知セメント株式会社)(『名古屋市史(産業編)』『百年むかしの名古屋』)。
名古屋博物館の副取締役にも就任しています。

5代服部与三治は、「可笑」と号して、書画を嗜んだようで、可笑筆の「大根画賛」という軸が伝わっています。このような趣味人としての側面があったからでしょうか、「葎の滴 諸家雑談」(尾張藩士細野要斎による風説留)には、慶応2年(1866年)、「専念往生伝」という本が「府下橘町板屋与三冶」のところで価格「三朱」で頒布されていたとの情報が記されています。

5代与三治筆と伝わる軸「大根画賛」(*)

*「菜」には、「名」がかけられています。つまり、名声にとらわれず、着実に、地道に利益をあげるようにという意味だと思われます。