服部産業の歴史

3. 4代与兵衛(与三治)と御勝手御用達格

3. 4代与兵衛(与三治)と御勝手御用達格

名番頭与助の功もあって、橘町板屋は、4代板屋与兵衛(過去帳では「与三治」)に至り、「御勝手御用達格」となります(既述の「与助行状記」のほか、「国秘録御勝手改革一条」(『名古屋叢書第十巻 産業経済編(1)』)。
また、翌安政4年(1857年)に作成された「献金見立角力」の番付では、「板屋誉兵衛」(第4代板屋与兵衛のことと思われます)が、西方13枚目としてあげられています(『鶏肋集』)。
同じく安政4年には、「板屋与三冶」が「材木屋惣兵衛」氏(材惣7代当主)と連名で福束輪中御惣代衆中に対し差し出した悪水吐門樋の模様替えに関する「指出申請書之事」(立教図書館蔵)という文書がみつかっています。この「板屋与三治」は4代であると考えられます。

また、4代の頃の出来事として、彦根藩上屋敷の普請請負があげられます。
彦根藩の上屋敷は、現在の国会議事堂の前庭、憲政記念館の辺りにありました。ところが、嘉永3年(1850年)2月、江戸の麹町で起きた出火が、折からの強風にあおられ、井伊家の上屋敷を含む30以上の大名屋敷を類焼させる大火となりました。幕末の大老として著名な井伊直弼公は、この火事について、外出先で知り、急いで帰ったものの、家臣達にとめられて、やむなく避難した等と、手紙に書いています(『大日本維新史料 編纂の部 井伊家資料二』)。当時の藩主は、井伊直弼公の兄である井伊直亮公でした。ところが、彦根藩上屋敷の再建は、なかなか進まなかったようで、井伊直弼公は、同年3月の書状で、他家では早々に長屋が建ち上がっているのに、普請が遅れているのは「不外聞」としています。

この彦根藩上屋敷長屋の普請を、橘町板屋が請け負ったのです。
彦根城博物館に寄託されている彦根藩士の文書には、嘉永3年(1850年)5月に、尾張橘町の「板屋与惣次」の代理が、普請場所を拝見した上で見積もりしたいといってきたとの記載があります。
ところが、『青窓紀聞』には、以下の記載があります。

【現代語訳】
井伊家上屋敷が当二月の大火によって焼失した長屋に、今度橘町の板屋が請け負ったところ、大風にて材木を運ぶ船が破船したため製材した木材が不足することとなった。そのため、工事が延びて十一月初めの琉球使節の江戸上りの通行に間に合わず、漸く二棟が立ち上がった。全体の板囲いを仕直しすると三千両も必要である。

どうやら、橘町板屋は彦根藩上屋敷長屋の普請を請け負ったものの、木材を運ぶための船が秋の大風により難破し、納期が遅れてしまったようです。

安藤広重「江戸勝景色」の「桜田外の図」(国立国会図書館蔵)
外桜田門辺りからの眺望。正面に見える赤い門が彦根藩上屋敷の正門。

現在の外桜田門から憲政記念館や時計塔がある国会前庭(彦根藩上屋敷跡)をのぞむ。赤い矢印で示した黒い細長い建造物が時計塔。その左手には、国会議事堂がみえます。