服部産業の歴史

6. 7代 小十郎と家業の充実

6. 7代 小十郎と家業の充実

7代服部小十郎は、明治13年(1880年)3月、名古屋市木挽町にて「平田屋」の屋号で瓦屋を営んでいた橋本治兵衛の三男として出生しました。幼名を橋本次郎吉といいます。
明治37年(1904年)5月、慶應義塾大学理財學科を卒業し、明治40年(1907年)4月、6代服部小十郎・たつ夫婦と養子縁組の上、その一人娘であるゑいと結婚しました。
明治44年(1911年)4月、31歳のときに、6代小十郎の死去に伴い家督を相続し、「小十郎」を襲名します。7代小十郎は、基本的に、政界や経済界での地盤を引き継ぐことなく、家業を充実させることに集中しました。
昭和11年(1936年)には、下堀川の工場だけではなく、松重町に第二工場のあったとの記録があります(『日本木材綜覧』)。西古渡には小売部(材木)がありました。
また、松重町には「服部量器製作所」があり、ここで製作された升は、全国的に移出されていました。

7代服部小十郎

7代服部小十郎

裏底に昭和11年との記載がある一斗升。恵比寿大黒の登録商標のほか、「名古屋㋵」の刻印がみえます。また、左の写真の裏側には、長方形の中に、「㋵アイチ服部製」の刻印があります。また、以下の内容の貼り紙があります。

此量器ハ木材ノ乾燥ニ特別ノ注意ヲナシ
弊所獨特ノ新式製作法ヲ以テ精製シタモノ故
差枉ヲ生マザルコトハ保証ス
萬一臨檢ノ際構造上不合格ト相成候時ハ
弊店直接御返送相成度直ニ修覆又ハ新品と取換ヘ可仕候
尤モ運賃ハ往復共弊店ニ於テ負担可致候

服部量器製作所の「量器原價表」も残っています。

大正8年5月改正「量器原價表」

更に、正木合板株式会社を設立し、合板製造にも進出します。
下堀川町の居宅は、葛町まで広がり、「藏春居」とよばれていたようです(『名古屋市史(地理編)』)。
このように、着実に地盤を固めていった7代小十郎は、木材業界では、大正13年(1924年)4月から大正14年(1925年)7月までと、昭和7年(1932年)8月から昭和15年(1940年)7月まで 、名古屋材木商工同業組合の組長をつとめました。
大正14年(1925年)3月には、株式会社名古屋桴扱所が設立され、7代小十郎が社長に就任します。
また、7代小十郎は、大正12年(1923年)3月、工業品規格統一調査会臨時委員に任じられました。工業品規格統一調査会は、大正10年(1921年)に設置されたもので、これにより、現在の日本産業規格(JIS)の前身にあたる日本標準規格(JES、Japanese Engineering Standards)が制定されました。7代小十郎は、追加で上記委員に任じられたようで、「それ以前に民間からは東京の長谷川君、秋田の菊池さん、大阪の森平さん」がおり、木材の標準規格(JES)の原案ができるまで、毎月3、4日位の連続会議が約2年間にわたって開催されたといいます(『名古屋木材市場の変遷 後編』)。

【左側】『任免裁可書 大正十二年 任免巻 二十三』(国立公文書館蔵)
【右側】『昭和財政史資料 第97冊』より「日本標準規格 木材」の1頁部分 (国立公文書館蔵)

木材業界以外では、数は少ないですが、名古屋株式取引所理事長、名古屋商業會議所議員、明治銀行監査役のほか、八勝倶楽部・愛知土地・愛知実業銀行・飛州木材株式会社の取締役、朝日木管・萬歳醸造の監査役といった重責も担っています。
〈参考〉名古屋商工会議所月報「那古野 第306号」(昭和9年)への寄稿

しかし、徐々に、戦争の足音が影を落としはじめます。昭和14年(1939年)10月18日、価格等統制令が施行され、木材についても、翌昭和15年12月、公定価格が突如発令します。昭和16年(1941年)3月には、木材統制法が公布され、同年5月末、木材統制法施行令規則の公布と共に、同年6月1日より木材統制法が施行されるに至り、昭和17年5月以降、個人営業が原則的に否定されました。かくて、昭和17年5月26日に、木材統制法に基づく名古屋木材株式会社の創立総会が行われ、いわゆる“商圏の奉還”となります。
そして、昭和20年3月12日、名古屋大空襲により、7代小十郎は、下堀川町の店、下堀川町・松重町・正木町の工場、下堀川町の居宅等、ほぼすべてを、焼失しました。 このような状況下、弊社(当時、服部製材株式会社。現、服部産業株式会社。)は、昭和19年5月18日に設立されます。
戦後、弊社は、焼け跡から立ち上がり、昭和、平成の木材業界の大きな変化に対応しつつ、令和の現在に至っています。