服部産業の歴史

5. 6代小十郎と業界内外での活躍

5. 6代小十郎と業界内外での活躍

6代服部小十郎は、万延元年(1860年)3月、5代服部与三治の長男として出生しました。橘町板屋の当主は、基本的に、「板屋与三治」を名乗っていましたが、6代、7代と「小十郎」が続きます(*)。2人の小十郎は、程度の差はあれ、木材業界を超えて活躍しました。 6代小十郎は、恐らく、明治17年(1884年)から明治20年(1887年)までの頃に、家督相続を受けた(あるいは、分家した)と考えられています。

*板屋小十郎に因んでいると思われる「板小」という商号は、江戸時代より用いられています(『青窓紀聞』)。

6代服部小十郎

6代服部小十郎

明治22年(1889年)の「愛知縣尾三両國持丸鑑 區の方」では、「下堀川 服部小十郎」が「東 前頭 十二枚目」として掲載されています。

明治時代に撮影された下堀川町の本店。なお、大日本山林會第21回総會編纂『紀念寫眞帖』(1910年)57頁に同じ写真が掲載されています。

明治の板小は、木材伐出、問屋業、小売業のほか、建築請負業も併営していたようです。
愛知県への納材の記録がみつかっていますし、北設楽郡官林木の払下げを受けて「豊川筋狩下ヶの際木曽川筋川下ヶの方法を適用し大に好結果を得たり」という記録もみつかっています。
また、明治12年(1879年)には、福束輪中の海松新田の四間門樋の新築を請け負っています(『輪之内町史』)。

「門樋正寫之圖」(片野記念館蔵)

翌明治13年には、岐阜県の養老公園内の千歳楼(せんざいろう、国の登録有形文化財(建造物))の新築も請け負いました(『養老町史』)。

養老町に現存する千歳楼の本館

明治29年(1896年)3月には、台湾台北門外街と大阪西区西長堀南通三丁目に、支店を設けたようです。
木材業界では、明治16年(1883年)6月、名古屋区材木商営業組合(後に、名古屋材木商組合と改称)が設立され、鈴木摠兵衛氏(8代当主)が頭取、6代小十郎が副頭取に、それぞれ選任されます。
明治32年(1899年)5月に名古屋で開催された第6回日本材木業聯合大会では、6代小十郎が愛知材木業協会委員長として出席しています。
また、明治40年(1907年)9月、名古屋材木商工同業組合の創立総会が開催され、鈴木摠兵衛氏が組長、6代小十郎が副組長に選出されました。
6代小十郎には、資本家としての側面もあり、「名古屋の渋沢栄一」と称される奥田正香氏のもと、現在の名古屋鉄道株式会社(『名古屋鉄道社史』)、東邦瓦斯株式会社(『東邦瓦斯50年史』)、日本車輌製造株式会社(『驀進 日本車輌80年のあゆみ』)、サーラエナジー株式会社(『社史・中部瓦斯株式会社』)等、様々な企業の設立にかかわりました。また、以下のような要職をつとめています。

名古屋商業会議所議員(創立から死亡時まで)、名古屋株式取引所監査役、名古屋商品取引所理事、西尾米穀取引所監査役、名古屋瓦斯会社取締役、豊橋瓦斯会社監査役、日本車輌製造株式会社取締役、名古屋電気鉄道株式会社取締役、豊川鉄道会社取締役、明治銀行取締役、第四十六国立銀行(愛知実業銀行)取締役、愛知貯蓄銀行取締役、名古屋生命保険監査役、愛知セメント会社取締役、愛知県燐寸株式会社専務取締役、中央炭鑛会社取締役、中央煉瓦株式会社取締役、名古屋建築合資業務担当社員、愛知材木株式会社副社長、大阪材木株式会社監査役

6代小十郎が専務取締役をつとめていた愛知燐寸株式会社の登録商標(第8315号)。

また、政界にも進出し、第1回名古屋市会議員選挙に当選して以降、満期による改選に当選し、在職のまま死去しています(在職期間21年6ヶ月)。名古屋市議会議長にも就任しました(第5代、第9代議長)。
愛知県議会議員もつとめたほか、衆議院議員にも選出されています(第7、8、9回衆議院選挙)。
名古屋市民に馴染み深い覚王山日泰寺(日暹寺)については、明治35年(1902年)3月、名古屋市長青山朗氏らとともに、御遺形奉安地選定期成同盟会を結成し、名古屋をお釈迦様の遺骨の最終奉安地とする誘致活動に尽力しました。
このように封建社会から解き放たれて、木材業界のみならず、財界、政界と、その思うところに挑戦し続けた6代小十郎でしたが、胃癌と診断された後、明治44年(1911年)4月に息を引き取りました。享年51歳でした。現在では考えがたいことですが、遺言により、自宅にて、死後解剖が行われたといいます。
〈参考〉6代小十郎の死亡記事(明治44年4月9日付扶桑新聞)